昭和50年 年月不明   11月9日前後 特別奉修委員●②x2  大坪かよこ

 
 いよいよ日々を安心の生活がさしてもらえれるおかげ、いわゆる喜びの生活です、が、ほんとにまあ、頂かしてもらえるおかげを頂かなきゃならん。
●② いま、私あの、ご神前で傘をさしておるお知らせを頂いたんですけれども、傘ということは安心ということでしょうね。安心ということですから、どういうような信心をさせて頂いたら、その安心のおかげを頂けるかということを、思うたら、その傘がね、マツタケのかさの開いたやつがあるですね、それをこうやって、そこを頂いたんですけどね。
松ということは、私は、あの元気な生き生きとした、信心だと思うですね。
それから同時にあの、茸はひとつのこの、あれは竹冠の、ただ普通の竹ね、と頂いて素直ということね、今日あたりの御理解、素直な信心といったら、素直な信心だけではいけん、ね、ほんに素直というだけの信心だけではいけん。
それにやっぱ生き生きとした、潔い、元気な信心が、この足ろうた時に、安心のおかげが約束される。
今日はね、傘を、こうさしておる、傘をさしておるということは安心のおかげだけどもね、そういう信心を、ああ、どういうような信心をさしてもろうたら、安心の、どんな場合であっても、喜べる、どんな場合であっても安心しておれる、はあ、おかげがとこう言えれる信心ですねいわゆる、それには、日頃、いわゆる潔いというかね、元気な生き生きとした信心ができよらなければ、同時に今朝から頂きます素直な信心が相まって行くような信心から、安心のおかげを頂けるということですね。
●②それから今日、あの座った途端に頂いたことでしたけれども、【情けは人のためならず】ということをいただきました。
これは普通で申します言葉ですね。情けを、情けをかけるということは、その情けをかける人のためじゃなくて、自分自身のためだという意味です。
だから、ほんとに自分自身のためになるような情けとはなら、どういう情けをいうだろうかと思いますね。
今あの秋山さんが、お届けされますのに、近所の方が、胃がんでもうむつかしかといわれる。それを、神様のお願いをして、一生懸命お願いを、お祈りをなさっておられた。
そいで先日から、門内でお見舞いに行かれたところが、それが開いてみたら胃がんじゃなかった。
そいでもう、まあ、退院も間近ちゅうぐらいにおかげを頂いてあるということなんです。
けれども、あん、お願いちとったばのとも、そのね、言われんし、まほんとは、あの、言わなきゃいけない、もう、神様に済まんごた気がするけれどね、あの、その、ま、それを言い出しきらじゃったということだったけれども、そりゃ、もうそれでいいよ、ということですよ。
私はあの、あの情けとはそういうことだと思うですね。条件がないということ、あの人にこがしこ親切しちゃったばってん向こうは知りもしちょらん、これは親切でもなからなきゃ、情けでもないのです。
ね、もう、情けは人のためならずです。もう自分自身のため、自分自身の力のため、自分自身のお徳を受けるために情けはかけにゃならん。けどもかけたけれども、向こうがお礼も言わっしゃらじゃったというようなことではね、もうそれは既にもう、なさけじゃないちゅうこと。
情けとは、そこに条件のない、ね、そういう信心が内容として育っていく、ね、そして、今日あたりのような、神と仲良うする信心がでける。
信心の素直さとは、ね、親のいうことを聞く子供が、ほんとうちの子供は素直だと親がいうように、ね、神様のいうことを聴く氏子が、いうならば信心でいう素直さだということ。
だから、信心でいうその素直さと、それからあの、ま、元気な生き生きとした、ね、いわゆる朝参り的信心と申しましょうかね、そういう信心に自分の信心がかけられる、そして素直な信心があいまっていくという、その内容としてはどういうことが育ってくるかというと、人の事を祈らなければおられない、願わなければおられない、しかも無条件で。
だから、皆さんあたりのなんかの場合は、ほんとにこう特別奉修委員の方達が、ね、日曜たんびんに教会全体のこと、また私のことを皆さんが一生懸命ご祈念して下さるということがね、も、無条件ではたしてでけておるかどうかということをいつも検討しなきゃいけません、
ただお付き合いでもいけませんし、ね、条件があってもなりません。
情けとは、無条件、その情けならば必ず、人のためじゃ無い、自分のために、自分の力を頂くことためになるということが、内容になってくると思うですよね。どうぞ。